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いずのくにの歴史(れきし)・文化(ぶんか)

そうじゃ、あやめちゃんは
伊豆の国市が「歴史(れきし)のまち」じゃと
知っておるか??

うーん、しらないなぁ…。
たとえば、どんなところが
歴史(れきし)のまちなの?

たとえば、世界遺産(せかいいさん)に登録(とうろく)となった「韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)」や、わしが暮らしていた「江川邸(えがわてい)」など、国が指定(してい)する文化財(ぶんかざい)があるんじゃよ。他にも遺跡(いせき)やお寺などがあるんじゃ。

ほんの一部だが、紹介(しょうかい)するぞ。

伊豆の国市の文化財(ぶんかざい)

国宝願成就院の運慶作諸仏(こくほうんじょうじゅいんのうんけいさくしょふつ)

 

木造阿弥陀如来坐像(願成就院)

木造阿弥陀如来坐像
(もくぞうあみだにょらいざぞう)

韮山地区寺家(じけ)にある願成就院(がんじょうじゅいん)というお寺の仏像(ぶつぞう)5体(※1)が、平成25年6月、国宝(こくほう)に指定(してい)されました。国宝とは、日本の文化・歴史(れきし)を知る上で特に重要(じゅうよう)な「たからもの」です。今回指定された仏像は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)にかけて活躍(かつやく)した仏師(ぶっし:仏像をほる人)運慶(うんけい)の作品で、文治(ぶんじ)2年(1186)頃、北条時政(ほうじょうときまさ、北条政子(まさこ)の父)の依頼(いらい)によって作られました。運慶の仏像には、それまでの仏像にはなかったリアルさと力強さが備(そな)わっていて、その後の日本の仏像に、大きな影響(えいきょう)を与(あた)えました。
みんなも、地元(じもと)にある「たからもの」を見に行ってみよう!

(※1)木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)・木造不動明王立像及び二童子立像(もくぞうふどうみょうおうりゅうぞうおよびにどうじりゅうぞう)・木造毘沙門天立像(もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう)

 

国指定重要有形民俗文化財木遺跡
(くにしていじゅうようゆうけいみんぞくぶんかざいまきいせき)

山木遺跡出土品

写真は山木遺跡(やまきいせき)からの出土品(しゅつどひん)

山木遺跡(やまきいせき)は稲作(いなさく)を行っていた人々の生活がわかる遺跡(いせき)として伊豆を代表するものです。弥生時代後期(やよいじだいこうき)から古墳時代前期(こふんじだいぜんき)(約1800~1700年前)の頃の生活の跡(あと)や、1200年くらい前の田んぼの跡が見つかっていて、韮山が昔から稲作のさかんな所であったことを示しています。

国指定史跡条氏邸跡(円成寺跡)
(くにしていしせきうじょうしていあと(えんじょうじあと))

北条

北条氏邸跡(ほうじょうしていあと)は鎌倉幕府の執権(しっけん)として活躍(かつやく)した北条氏の館(やかた)があった場所(ばしょ)です。伊豆北条(いずほうじょう)とよばれた一帯(いったい)は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)にかけて北条氏(ほうじょうし)の本拠地(ほんきょち)があった場所です。北条氏邸跡(ほうじょうしていあと)は武士(ぶし)の地方での生活を知ることができる史跡(しせき)としてとても重要(じゅうよう)なのです。

源頼朝と蛭ヶ島
(みなもとのよりともとひるがしま)

蛭ヶ島

平治の乱(へいじのらん)で平氏(へいし)に負けた源氏(げんじ)。源氏の血筋である源頼朝(みなもとのよりとも)は、伊豆蛭ヶ島(ひるがしま)に流されました。この地で20年間を過ごした頼朝は、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘、政子(まさこ)と結婚します。それをきっかけに平氏打倒(だとう)の軍を旗揚(はたあ)げします。

そしてついには、弟の源義経(みなもとのよしつね)を総大将とし、平家(へいけ)を滅ぼしました。その後、頼朝は鎌倉(かまくら)に初の武家政権(ぶけせいけん)を樹立(じゅりつ)しました。

国指定史跡堀越御所
(くにしていしせきんほりごえごしょあと)

伝堀越御所

伝堀越御所跡(でんほりごえごしょあと)は「堀越公方(ほりごえくぼう)」とよばれた足利政知(あしかがまさとも)の御所(ごしょ)があったと伝えられる場所です。政知(まさとも)の死後、明応2(1493)年に北条早雲(ほうじょうそううん)によって滅(ほろ)ぼされました。
発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)によって、池跡(いけあと)や遣水(やりみず)、建物跡(たてものあと)が見つかっていて都風(みやこふう)な公方(くぼう)の生活を知ることができます。

国指定史跡山役所跡
国指定重要文化財川家住宅
(くにしていしせきらやまやくしょあと、
くにしていじゅうようぶんかざいがわけじゅうたく)

江川邸

韮山役所跡(にらやまやくしょあと)は戦国(せんごく)時代から明治(めいじ)の中頃まで、地方政治(ちほうせいじ)の中心となった場所です。
このように長期間(ちょうきかん)、地域支配(しはい)と行政(ぎょうせい)の中心となった場所は、全国的(ぜんこくてき)にもまれです。重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されている建物(たてもの)や、古文書(こもんじょ)などが現在まで保存(ほぞん)されたことから、江川邸(えがわてい)とその一帯(いったい)が平成16年9月「韮山役所跡(にらやまやくしょあと)」として国の史跡(しせき)に指定(してい)されました。

国指定史跡山反射炉
(くにしていしせきらやまはんしゃろ)


反射炉

幕末(ばくまつ)日本の大砲鋳造工場(たいほうちゅうぞうこうじょう)

韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)は、鉄(てつ)を溶(と)かして大砲(たいほう)を鋳造(ちゅうぞう)した溶解炉(ようかいろ)です。炉(ろ)と煙突(えんとつ)の部分(ぶぶん)を合わせた高さは約16m、当時(とうじ)のものが残る日本で唯一(ゆいいつ)のものです。当時、反射炉(はんしゃろ)の周囲(しゅうい)には各種(かくしゅ)の作業小屋(さぎょうごや)や倉庫(そうこ)などが建ち並び(たちならび)、多くの職人(しょくにん)が働(はたら)いていました。平成27年7月に世界文化遺産(せかいぶんかいさん)「明治日本の産業革命遺産(めいじにほんのさんぎょうかくめいいさん)」に登録(とうろく)されました。

くわしく知りたい人は、写真(しゃしん)をクリックするとそれぞれの文化財(ぶんかざい)のページにとびます。

ちょっとむずかしかったけど、
勉強(べんきょう)になったよ。
もっと調(しら)べてみようかな。