| | 幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。反射炉とは、金属を溶かし大砲を鋳造する炉。建設当時の反射炉が現存するのはここだけです。平成19年11月30日に経済産業省から近代化産業遺産に認定されました。 住所 静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268 電話番号 055‐949‐3450 観覧時間 9時から16時30分 休館日 年末年始(12月28日〜1月3日まで)
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| 韮山反射炉入場料金表| 区分 | 個人 | 20名以上の団体 |
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| 大人 | 100円 | 90円 | | 小学生・中学生 | 50円 | 45円 |
※障害のある人:無料(1人に付き介添え2人まで無料) |
反射炉とは?
反射炉とは、銑鉄(せんてつ・鉄鉱石から直接製造した鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっています。そこから、反射炉という名称が与えられたわけです。
溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工されました。近年の発掘調査では砲弾の鋳型などが発見されています。
炉と煙突の部分を合わせた高さは約16m、当時の物が残る日本で唯一のものです。当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていました。
反射炉建造までの道のり
嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされました。江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を許可します。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに大規模な反射炉を建造することは非常に困難が伴いました。
建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市高馬)とされ、その年の12月には基礎工事が始められました。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件がおこりました。そこで、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになったのです。反射炉は、ヒュゲニン(huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいた、連双式(溶解炉を二つ備える)ものを2基、直角に配置した形となっていました。つまり、四つの溶解炉を同時に稼動させることが可能になったのです。
しかし安政2年(1855)正月、江川英龍(坦庵)は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいます。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請しました。その結果、安政4年(1857)11月、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成したのでした。
完成した反射炉では、元治元年(1864)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造されました。これらの大砲は品川台場に28門配備されました。