文字の大きさ
縮小
標準
拡大
色の変更
標準
青地に黄色
黄色地に黒
黒地に黄色
  • Foreign language
  • 携帯サイト
  • 市へのお問い合わせ
  • サイトマップ
  • Eメール配信サービス 防災情報などお役立ち情報満載。

ホーム > 学び・文化 > 文化財 > 国指定史跡韮山反射炉 > 韮山反射炉とは

ここから本文です。

更新日:2017年4月24日

韮山反射炉とは

韮山反射炉外観

幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。反射炉とは、金属を溶かし大砲を鋳造する炉。稼働した反射炉が現存するのはここだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

反射炉とは?

反射炉内部反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっています。そこから、反射炉という名称が与えられたのです。

溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工されました。近年の発掘調査では砲弾の鋳型などが発見されています。

炉体と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m、実際に稼働した反射炉が残っているのは日本でここだけです。稼働当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていました。

反射炉建造までの道のり

嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされました。江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を命じます。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに反射炉を建造するのは、非常に困難な事業でした。

建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市高馬)とされ、その年の12月には基礎工事が始められました。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件がおこりました。そこで、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになったのです。反射炉は、ヒュゲニン(huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいた、連双式(溶解炉を二つ備える)ものを2基、直角に配置した形となっていました。四つの溶解炉を同時に稼動させ、大型砲を鋳造するための工夫です。

しかし安政2年(1855)正月、江川英龍(坦庵)は韮山反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいます。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請しました。佐賀藩士の助力を得て、安政4年(1857)11月、韮山反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成したのでした。

韮山反射炉では、元治元年(1864)に幕府直営反射炉としての役割を終えるまでに、鉄製18ポンドカノン砲や青銅製野戦砲などの西洋式大砲が鋳造されました。


 

Adobe Readerのダウンロードページへ

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先から無料ダウンロードしてください。

お問い合わせ

文化財課

〒410-2292静岡県伊豆の国市長岡346-1 あやめ会館1階

電話番号:055-948-1428

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?