更新日:2025年6月30日
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韮山城跡は、小田原北条氏の祖である伊勢宗瑞(通称:北条早雲)が戦国時代に整備した城跡です。
宗瑞は明応2年(1493年)に堀越御所を攻め、伊豆に進出した後、韮山城を“生涯の居城”として使用しました。宗瑞の没後、戦国大名としての拠点は小田原へと移りますが、領国の西側を守る重要な城郭として、駿河今川氏や甲斐武田氏との軍事緊張があるたびに改修が行われました。発掘調査では、城郭の大規模改修を示す堀跡などが確認されています。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による韮山城攻めの際には、約3ヶ月の籠城戦が行われ、豊臣軍が周辺の山々に築いた“付城跡”(攻め手の陣地)は、現在も良好な状態で残されています(注1)。
北条氏滅亡後は、徳川家康の家臣である内藤信成が韮山城に入城しますが、慶長6年(1601年)に廃城となりました。廃城後は、韮山代官の御囲地となったため、その環境を大きく変えることなく、土塁や堀なども戦国時代の姿をとどめています。
韮山城跡は、戦国大名である小田原北条氏の最初の拠点城郭かつ、戦国時代を通した構造の変化がわかる貴重な遺跡であり、周辺に良好な状態で残存する付城跡群は、豊臣秀吉の天下統一における最後の城攻めの状況を示す日本史上重要な遺跡です。これらの点が評価され、令和7年6月20日に開催された文化庁文化審議会にて国史跡指定の答申がなされました!
(注1)現在、韮山城跡は本城(龍城山)のみ公開しています。要害部(土手和田遺構群や天ヶ岳遺構群など)や、豊臣方の太閤陣場付城跡・本立寺付城跡・追越山付城跡・上山田付城跡・昌渓院付城跡は、私有地につき立ち入りをご遠慮ください。
夏場はマムシやイノシシ、スズメバチも確認されています。登城の際は十分ご注意ください。
伊豆の国市では、韮山城跡と付城跡群を一体で国史跡にしていくために調査事業を進め、総合調査報告書を刊行しました。
奈良文化財研究所の全国文化財総覧より閲覧・ダウンロードすることができます。詳しくはこちら(外部サイトへリンク)から。
文化財課では、韮山城跡の概要パンフレットを発行しています(無料)。このパンフレットを手に、城跡の散策をしてみてはいかがでしょうか。
データダウンロード
韮山城跡は、戦国時代のはじまりと終わりを語る、日本史上の転換点を示す城跡として、重要な城です。韮山城本城や、その背後に位置する天ヶ岳遺構群だけでなく、これらを取り囲むように豊臣軍によって築かれた付城跡(つけじろあと)などの土塁や堀も残っています。
市では、この韮山城跡を、後世に守り伝え、活用すべく、平成26年3月に『韮山城跡「百年の計」』を策定しました。この計画は、同年3月に策定した「伊豆の国市歴史文化基本構想」と連携したもので、「百年の計」は、個別の基本計画にあたります。
「百年の計」は、韮山城の調査・研究、事業の方針、「百年の計」を実現するためのみちすじ、の3本柱によって構成されています。韮山城跡の調査・研究は、発掘調査で見つかった遺構、遺物や、古文書・現地踏査についてまとめており、現在の韮山城跡研究の最先端について知ることができます。事業の方針では、「きわめる、つたえる、いかす」、をキーワードとして、各々の方針を記述しています。「百年の計」を実現するためのみちすじ、では、今後の課題について示しています。
韮山城跡を、守り伝えていくために、韮山城跡「百年の計」をもとに具体的な計画を作り、調査、保存、活用等を実施してまいります。ご理解とご協力をお願いいたします。
韮山城「百年の計」は、伊豆の国市立中央図書館、伊豆の国市郷土資料館で閲覧のほか、下記のデータにて参照、ダウンロードができます。(データ容量により、表示されるまで少々の時間がかかります。3.~5.は表示の表示時間は1分近くになります。ご了承ください。)
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