更新日:2023年4月6日
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伝堀越御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。
室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、長禄元年(1457)、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越(四日町の一部)の地に御所を構えました。これにより政知は「堀越公方」と呼ばれました。しかしこの御所も、政知の死後、明応2年(1493)に伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅ぼされてしまいました。
発掘調査によって、御所に伴うと考えられる、遣り水や滝口などの池跡が見つかっています。伊豆韮山の地で公方が都風な生活をおくっていたことがわかる貴重な遺跡です。
伝堀越御所跡の遠景
発掘で見つかった池の縁石
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